◆文字数が増えたので

 4500字を一度に載せるとかなり読みにくいだろうと実験してみる(笑)

◆内容的に

 少しダークです。
 苦手な方はご注意ください。

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『錆びた連鎖』


 目の前で震える女を、俺は冷たく見下ろした。
 両手を後ろ手に縛られ、埃臭い工事現場の資材の隙間に女は踞っている。薄い花柄のスカートは泥まみれで、レースに縁取られた首元が大きく開いたTシャツは破れて下着が覗いていた。中で柔らかそうな白いふくらみが、大きく上下している。
「ごめんなさい、ごめんなさい……許して、殺さないで」
 その言葉は、俺になんの感情も呼び起こしはしない。俺の感情は、いったい何処へいっちまったんだろう。女の姿に欲情もしなければ、憐れみも感じない。目の前にあるのは、ただのモノにしか思えなかった。

 今度は何か、感じられるかと期待したのに。
 やはり何も、感じることが出来なかった。

 目の前で泣き喚く女に、俺は俺の母さんを重ねる。特に似た女を選んでいるわけじゃない。俺に流れる淀んだ血が脳味噌を掻き回し、腐らせ、その腐臭が鼻についてどうにも我慢が出来なくなった時、夜の街を歩き回る。そして若い女を見つけ、後を付け、後ろから首の付け根を殴って気を失わせるんだ。軽そうな女がいい、運ぶのに時間を取られたくないからな。
 ああ……だけど年齢的には、あの頃の母さんと同じくらいかもしれない。俺が十歳の頃、母さんがいなくなった時の年齢……二十代後半くらいだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、もうしません……許してよ母さん。お願いだよ、ぶたないで」
 子供の頃、俺はその言葉だけを繰り返してきた。だけど母さんは、俺を殴るのをやめない。謝れば謝るほど、泣けば泣くほど、激情に駆られたように俺の頬を頭を、背中を、腕を足を、母さんの手が腫れて感覚がなくなるまで殴ったんだ。
 俺は腹を庇うのがやっとだった。腹を殴られたら、吐いてしまうから。吐けばまた、汚れ物がでたと言って母さんが怒る。そしたら、今度は柄物を持ってきて俺を殴り始めるから。一晩中、俺が気を失っても母さんは殴るのをやめなかった。
 俺はただ、母さんが殴り疲れて放心するまで待つしかなかった。母さんは、その後で必ず泣きながら謝るんだ。
「ごめんね、痛かった? ごめんね、酷いことしちゃったね。ごめんね……ごめんね……」 叩かれる理由なんか、いつだって些細なことだ。
 母さんが仕事から帰ってきたとき、たまたま俺が家にいなかったから「何処に行っていたのよ! あんたが遊んでいるときだって、母さんは仕事してるってのに!」そう言って平手で俺を叩く。一発、二発、三発……。エスカレートしていくのを、母さんは自分で止めることが出来ない。
 家にいて洗濯をたたんだり、掃除をしていても必ず気に入らないことを見つけて俺を叩く。置物の位置が違うとか、読もうと思った新聞がないとか、大切なブラウスに変なたたみ皺がついたとか……。
 ああまた、叩かれる。日課となった暴力に、俺は抗う気も起きない。母さんは、弱い人なんだ。たかだか十歳の俺に力を誇示しなくちゃ、自分が自分で居られないんだ、きっと。だから俺は、我慢してきた。ずっと、ずっと、ずうっと……。
「ごめんなさい……お願い……殺さないで……」
 鈍く光るナイフをかざすと、大抵の女はそう言った。「自分に非があるなら、謝るから許して欲しい」と。
 だけど、残念なことに理由なんか無いんだ。理由が無くても、不条理な暴力は受けるんだよ。謝っても、無駄なんだよ。
 感情を呼び起こしてくれる誰かが現れるまで、俺は同じ事を繰り返し続けるのだろうか。脳裏をよぎった疑問さえ、乾いた風のようだった。

   ***

 口の中がざらざらする。ああ、また、俺の身体中を汚物が逆流しているんだ。鼻につく、鼻について胸が悪くなる。酸っぱい唾液が舌の奥を刺激して、無理矢理飲み込もうとすると胃の中身が反乱を起こすんだ。
「すいません、店長、気分悪いっす。あがらしてもらいたいんですけど……」
 二十四時間営業のレンタルビデオ店も、深夜の二時ともなれば客は少ない。
「んー、またかぁ……? おまえ今週二度目だぞ、以前も気分が悪いと言って早あがりする事あったけど、ひと月に二・三回だったじゃないか。どっか悪いなら、医者に行けよ。苦学生なのは分かるけど、身体壊したら本末転倒だ」
 俺よりも五歳しか違わないが、既にレンタルビデオ屋を生涯の仕事に決めたらしい店長が心配そうな顔を作って見せた。
 偽善者め……少ないとはいえ、客が居るから体裁を取り繕っていやがる。そんなふうに考えることはあっても、何の感情も湧くことはない。俺は辛そうな愛想笑いを演じると、店名の入ったエプロンを外してスタッフルームに引っ込んだ。

 この不快感は、あの女が店に入ってきたときからだ。

 あの女は、週末になると決まって男連れでやってきた。そして必ず甘ったるい恋愛映画を借りていく。男の方が戦争アクションやホラーを借りようとすると、甘えた声を出して拒否するんだ。あんな演技を信じているのだろうか、男はいつも女の言うことを聞いて選び出した映画を棚に戻す……。

 だが今夜、女は一人だった。

 俺は一階が駐車場になった店を出て、階段の裏手で女を待った。もしや後で男が来るのかもしれない、待ち合わせかもしれない。考えとは裏腹に、俺は期待の糸を繋ぐ。すると、それほど時間をおかずに女は一人で階段を下りてきた。

 あとをつける……人気のない場所から、さらに人気のない場所へ。

 気配を悟られない位置から走り、女の首の付け根を後ろから殴った。いつも持ち歩いているダンベルに、確かな手応え。女は小さく「は」と叫んで、糸の切れた操り人形よろしく、アスファルトに倒れ込んだ。

   ***

 意識のない女を、ゆっくり眺めるのが好きだ。近場にあった小さな運送会社のガレージの片隅に、俺は女を担ぎ込んだ。
 この女の髪は、良い匂いがした。最近の女達が使っているような、強い匂いじゃなかった。普通のシャンプーの匂い、誰かと一緒に風呂にはいった記憶を呼び覚ます匂い……。誰だろう、この女は誰だ?
「ふっ……んっ……」
 女が目を覚ました。
「ひっ!」
 いつもと同じ反応だ。次に口から吐き出されるのは命乞いの台詞、とめどもなく同じ台詞が繰り替えされる。十歳の俺のように、無駄で意味のない言葉を念仏のように唱える。だけど俺は、あの時の母さんのように優越感も嗜虐的な満足感も感じることが出来ない。何故なんだろう……。
「私を殺すんでしょう?」
 女の言葉に、俺は一瞬耳を疑った。
「最近この辺りで通り魔殺人があったから、この一週間、わざと深夜に人気のないところを歩いていたんです……」
 ただの強がりか? それとも俺の意表をつき、逃れる算段をするつもりなのか? 女の目には恐怖の色が浮かび、声も震え擦れている。死にたいわけではないだろうが……。
「死にたかったの」
 女は俺の手にあるナイフに視線を走らせてから、俯いた。
「初めてだな、そんな酔狂な台詞を言った女は」
 いつもの展開と、異なる所為なのか……? ヘソの辺りが、ちりちりするのを俺は感じていた。
「生きていたくなくて、死んでしまいたくて……あなたが犯人でしょう? お願いだから殺して……新聞で読んだの、性的な乱暴をしない犯人だって。だから私……」
 俺は、何も言わずに女を見た。普通に可愛い女だ、歳は二十五歳くらいか少し上かもしれない。栗色にカラーリングしたセミロングヘア、白い肌、バラ色の唇。下校時に立ち寄る女子高生ほど化粧は濃くないし、けばけばしいマスカラもない。ストライプ柄の薄いピンクのシャツ、白いスカート。バックから覗くビデオタイトルに俺が目を移すと、女が小さく声を上げた。
「あっ、あなた……」
 ようやく俺が、レンタルビデオ店のカウンターにいる人間だと気が付いたらしい。
「今日は一人だったな、彼氏に頼まれたのか」
 映画のタイトルは戦争アクションだった。
「別れたんです……私のような完全な女は息が詰まる、良い女の見本のようでつまらないって言われたんです。そうなるように一生懸命努力してきたのに……無駄だった。彼は、欠点のある女が可愛げがあっていい、私といるのは窮屈だって……。今までの努力は何だったのか、彼に好かれようと思って頑張ったことは全て逆効果だったなんて……もう私は、自分がどうすればいいか解らないんです。自分を創る手本を失ってしまったんです……」
 女が勝手に話し続けるうちに、ヘソの辺りのちりちりしたものが、だんだん熱くなってきた。
「馬鹿じゃねえの? 別の男を見つけて手本にしろよ」
「……今さら違う人間にはなれないんです」
「違う人間になろうと思って、好きでもないビデオ借りたんじゃないの?」
「それは……」
「あんたさぁ、見た目イイセンいってるよ。諦めるの、早くねぇか?」
「えっ……」
 女は俺を真っ直ぐ見た。
「そんなこと言われたの、初めてです……」
「それはさぁ、あんたが彼氏しか見てなかったからでしょう?」
 離れた街灯の光では判断しかねたが、女の頬に赤みが射したような気がした。
「……ありがとう」
 その言葉を聞いた瞬間、俺の背骨に電流が流れた。
「ありが……とう……だと?」
 シャンプーの匂いが、目の前の女を別の女の姿に変える。

 俺が欲しいモノ。
 俺が失ったモノ。
 俺が望んだモノ。

 ヘソの辺りでちりちりしていたモノが、うずを捲きながら喉元まで昇ってきた。両手が震え、頭の後ろが痺れてジンジンと鳴る。気が遠くなるような、腰が砕けるような、気持ちの良い感覚に包み込まれて俺の全身は震えた。
 そうだ、俺の身体は知っていた。ただ、俺の頭が理解していなかったに過ぎない。ようやく身体に感じる感覚が、意識と融合して理解することが出来た。絡んだまま錆びてしまった鎖が、するりと解けて鈍く光り出す……。
 初めてのバイト代で買った小さなプレゼントを、母さんは包みも開けずに投げ捨てた。
「おまえ馬鹿か? ……現金を持ってきな」
 あのとき俺は、ありがとうと言って欲しかった。言ってくれると、信じていた。裏切られた喜びは、唐突に違う感情にすり替わる。
 血塗られた手を見たとき、俺は何も感じなかった。いや、感じることを気持ちのどこかで否定してしまったんだ、あの時から。小さな罪悪感が、その感情を認めさせなかった。
「礼を言うのは俺の方さ……あんたのおかげで、ようやく解ったよ。俺が何のために女を殺してきたのか、何を求めていたのか。俺が欲しかったのは、ありがとうの一言だったんだなぁ……それが解るまでに随分無駄な労力をつかっちまった」
 女の目に、僅かな希望の光が灯る。
「良かったですね……知りたかった事が解って……。あっ、あの……私もなんだか死にたいと思わなくなったみたい……。あなたのことは黙ってます、誰にも言わない、だから……」
 俺はナイフを見つめると、爽やかな気持ちで笑った。
「そうか、生きる気になってくれたのかぁ……そいつは良かった。だけど……何が俺の感情に蓋をしていたか、ようやく解ったんだぜ? あの女を殺したときに感じたのは、紛れもなく悦びだった。悪いのはあの女だ、俺が罪悪感を感じる必要なんか無かったんだ……。だからさぁ……これからは楽しむことが出来るじゃないか……ありがとう……な」
 ナイフを女の胸に滑らせながら、俺は満たされた気持ちで湧き上がる感情を受け止めた。

                    (終)

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[本文]

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 この村は、『火竜』の呪いにより自ら火をおこす事が出来ませんでした。
 火打ち石を弾いても、燃えやすい木をどれほど擦り合わせても、火を得る事が出来ないのです。
 過去に何度となく勇敢な若者が谷を登り魔女の森を越え、他の村から火種を持ち帰った事もありました。しかし赤々と燃えていた炭は谷に下りた途端にただの炭となり、いくら空気を通しても突いて掘り起こしても火はよみがえらなかったのです。
 村が火を得る方法は、一つしかありません。
 夏の終わりの「夏祭り」、その収穫祭の時に『火竜』が運んでくる火だけが唯一使える火なのでした。
 村人は一年を掛けて魔女の森から切り出した木を乾かし、薪にして積み上げておきます。すると村に飛来した『火竜』が炎を吐き、そのたくさんの薪を一瞬で炭に変えるのです。薪の中には火種があり、ワラや細木を継げば火を得る事が出来ました。魔法のようなその火は多くの燃料を必要としないので、谷を出ないと木材を手に入れられない村人にとってはありがたいものでした。
 しかし薪に宿る火種は、次の年の夏祭りには全て消えてしまいます。谷が風を遮るため村の冬はあまり厳しくありませんが、それでも火のない冬越えは考えられません。村人はまた、『火竜』から火をもらわなくてはならないのです。
 たとえそれが、大きな代償を伴うことであろうとも。

(つづく)
[本文]

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「遅いわ、エイリウス。わたし、もう帰ろうかと思ったのよ? 日が傾いてすっかり冷えてしまったから」
「ずっと川に足をひたしていたからだよ、赤くなってる」
 エイリウスは横に座り、水からアルラウネの足を持ち上げると胸元から手拭いを出して優しく拭いてくれました。そして両手で包み込むように暖めます。その途端にアルラウネの頬は嬉しさと恥ずかしさで、冷たい足とは反対に熱くなってしまいました。でもバラ色に染まった頬は、夕日のオレンジ色に紛れてエイリウスは気付かないでしょう。少し安心して顎をあげ、アルラウネは訳知り顔をつくりました。
「今日の夜番はウィリアムね、あの人いつも遅れてくるんでしょう?」
「ああ、夏祭りが近いからね。木工師のウィリアムは何かと忙しいんだよ」
 穏やかに微笑むエイリウスの髪が、川面を渡る風に舞いました。きらきら、きらきら、露をまとい朝日にきらめく蜘蛛の糸よりも美しい金の糸。村で一番美しい髪の青年は、彼方に見える山々と同じ緑水晶色の瞳でアルラウネを見つめます。
 見つめ返したアルラウネは、雪のように白いエイリウスの頬に一筋のスス汚れを見つけて小さく笑いました。
「なに? 何がおかしいの?」
「ふふっ、ないしょ。教えない」
 少し怒ったようにエイリウスは眉を寄せましたが、すぐに困った顔で笑いました。いたずら好きで明るく、しかし根が正直で少し泣き虫のアルラウネは、エイリウスの言葉や仕草ですぐに表情が変わります。今も耳まで赤くなっているのが解りましたが、その気持ちを隠そうとするところがエイリウスには愛しくてたまらないのです。
 アルラウネも同じくらいエイリウスを愛していたので、あまり困らせないうちに自分の手拭いを水で濡らして頬を拭ってあげました。おそらくススは、『番人』をしている時についたのでしょう。

(つづく)
[本文]

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  アルラウネは川縁の岩に腰掛けると、スカートの裾を少したくし上げてせせらぎに足をひたしました。いつもより水が冷たく感じるのは、谷を渡る風が秋の気配を運んでくるからでしょうか。
 屏風を立てたように谷を外界から遮断する岩盤が、夏の終わりの空を細長く切り取っていました。空の彼方には、幾重にも連なる山々がまるで蜃気楼のように浮かんで見えます。しかし透明な緑色の水晶のように美しいその姿も、両手の指を三回折るだけ朝を迎えると頂からだんだん白くなっていくのです。山の向こうには、一年中溶けずに残る氷河があると言われていました。その氷河を源に、谷に流れる川の水は冷たく澄んでいるのです。
 水が足の指をくすぐる感触を楽しんでいるうちに、身体はすっかり冷えてしまいました。今日は待ち人が、なかなか現れません。いつもなら、谷の影が村を覆いきってしまう前に来てくれるはずなのに。
 アルラウネの栗色の長い髪が風に舞い、少し西に傾いた陽光にきらきら光りました。すると美しい金の髪に見えるので、この時間の太陽の光がアルラウネは大好きでした。でも本当に美しい金の髪を持つ人を、アルラウネは知っています。
 西に傾いた太陽の光に輝くアルラウネの髪よりも、何倍も美しい金の髪を持つ愛しい人。
「ごめんよ、遅くなったね」
 肩越しにかけられた声に、アルラウネの顔は、ぱっと明るくなりました。

(つづく)
[本文]

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 切り立つ岩肌に挟まれた谷の底、清らかな川が流れる平地がありました。川縁には小さな村があり、人々は平和に暮らしを営んでいました。他の村に行くには鎖を伝って岩肌に切り出された細い道を登り、さらに谷を出たところにある魔女の棲む深い森を抜けて街道に出なければならないのです。
 しかし、この地で暮らす人々に何も不自由はありませんでした。四季折々の花は美しい景観で人々の心を幸せにし 土地は豊かな作物を実らす肥沃な土に恵まれ、川に網を打てばいくらでも魚が捕れたからです。
 ところが、ある日を境に何よりも大切なものを彼等は失ってしまいました。
 この村は、火を持つことができなくなったのです。

(つづく)

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◆一応小説サイトだし

 改稿やら手直しで、新作あげないのも不義理かなと思い新連載です。また、プロット無し、結末未定の書き方ですがお付き合いいただけると嬉しく思います。
 予定では多分、30枚ほど。気弱な金細工師が、恋人のためにがんばるお話になる……はずです(笑)
〔本文〕

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「あのね、誤解してるかもしれないと思ったんだ。あのとき、椅子に座り損ねて転んじゃったから助け起こしてもらったんだよ。ホントだよ? だから……」
 必死に考えた言い訳だと、すぐに見破ることができた。どう見ても、そんな状況ではなかったからだ。
「嘘つくな……だけど安心しろ、俺がアイツを、ぶっ殺してやるからさ。ナイフも用意した、ガーバー社のナイフでハンティングに使う凄いヤツなんだぜ。これで心臓を一突きしてやる」
 少女の前で、少年は得意だった。最高にカッコイイ台詞を、言ったつもりだった。
 行動理由は、誰にも知られてはいけない。だが少年は、少女にだけ解ってもらいたいと思った。気付かれないようにネットカフェのPCから少女の携帯にメールを送った。
『救ってやる』と。
 それはあの時、あの場所で、少年が言うべき言葉だった。言わなければならない、言葉だった。だが少年は言えなかった。いつもそうだ、いま言わなくてはいけない言葉を言うことが出来ない。臆病で、卑怯で、矮小な自分。
 学校を飛び出した少年は、家にたどり着く前に悔しさと、情けなさで息苦しくなった。ウサギの肉を吐いたときの父の顔がフラッシュバックして、胃液が逆流した。踞って、吐いた。吐きながら泣いた。両腕の拳を、何度も地面に叩きつけた。乾いた土に、涙と血が黒い染みを作った。
 本当の自分になる、その後のことはどうでもいい。あのメールだけで、少女が少年の行動を予測することは出来ないだろう。だが全てが終わった後で、気が付いてくれるかもしれない。気が付いて欲しい、そう思った。
 事前に気が付いて、止めに来るかもしれない。たったいま少年が口にした台詞は、その時に備えて考えていたものだった。少女は止めるだろう、やめてくれと泣くかもしれない。制止を振り切って、崇高な儀式は行われるのだ。
「メール、誰からきたのか、すぐに解ったよ。だから、朝から待ってたんだ」
 青ざめた顔で少女は、歪んだ笑みを浮かべた。
「そう、本当は見られてしまった通り。でもね、すぐに他の先生に見つかって何もなかったんだよ。大丈夫だったんだよ。数学の先生は、もうこの学校にはいない。どこに行ったかなんか知らない。調べても、たぶん誰も教えてくれない。だから……」
 期待していた涙と、違う涙が少女の目からあふれ出した。
「馬鹿なこと考えたらダメだよ、そんなこと、君がすることじゃない。自分を大切にしてよ、あたしは何ともないんだから。本当に、何ともないんだから」
 身体中の力が抜けて、少年は呆然と立ちつくした。視界に映る全ての景色が色を失い、ただボンヤリ少女を見つめた。思考は停止し、渇いた笑いが口を突いて出た。
 結局、何も出来なかった。思い込みで、自分の正義は空回りしていただけだった。少年の、空っぽになった身体にアブラゼミの共鳴が流れ込む。額を伝う汗が目にはいると、しみて涙が出そうになった。ナイフが手から滑り落ちて、ポケットに沈んだ。最高に格好悪いと思いながら、気持ちのやり場がどこにも見つからなかった。
「でも、ありがとう……」
 少女は少年の手を取り、水風船を揺らした。ポケットから手を出し、少年は水風船を手に取った。それはまだ、冷たかった。
「ねえ、夏祭りに行ってみようか」
 いままで晴れ渡っていた空に、大きな入道雲が湧いていた。地上から渦となり巻き上がった熱い上昇気流が、見る間に雲を運ぶ。気が付けば空に暗雲が立ちこめ、頬に一粒の雨が当たった。蒼白い稲妻が、宙を裂いた。暫くして、轟音が大気を震わせた。
「きゃっ」
 少女は小さく叫ぶと肩をすくめ、残念そうに少年を見た。
「これじゃぁ、お祭りも台無しだね」
 少年は、乱暴に少女の手を取り歩き出した。足早に、増え始めた夏祭りの人混みを掻き分けた。やがて境内に着くと、水風船の男を捜した。間断なく降り始めた雨の中、男は鳥居の近くで恨めしそうに空を見上げていた。
「おじさん、水風船が欲しいんだ」
 少年は、ポケットからナイフを取り出した。格好悪い自分を、ナイフと一緒に捨ててしまいたかった。
「だけど、お金を持ってないんだ。このナイフと交換してくれないか」
 男はじっと少年を見つめ、笑った。そして赤い水風船を一つ、少女に差し出した。
「この雨だ、今日は店をたたもうと思ってね。祭りに水が入っちゃ、水風船屋もあがったりさ。こいつはサービスだよ、持っていきな。それからくれぐれも、これの使い道を間違えるんじゃねえぞ」
 少年の手には、地面を殴った時に出来た傷があった。その手を男はゴツゴツとした手で包み込み、ナイフを押し戻した。
 雨は滝のように降り注ぎ、少年も少女も全身ずぶ濡れになった。
「なんだか、シャワーをあびてるみたいで気持ちいいな」
 少女が笑った。少年は、濡れたブラウスから透ける薄ピンク色の少女の肌に戸惑った。
「帰ろうか」
 少女から目を逸らし、少年は小さく呟いた。
「そうだね」
 少女は小さく返事をした。
 水風船をぶら下げて、二人はしっかり手を繋いだ。少女の家の前まできても、少年は手を放すことが出来なかった。雨は小降りになりつつあった。
「あのね、知ってる? 人間の細胞は3年で全部入れ替わるんだって。だから、3年後の自分は、全く新しい自分になってるんだよ」
 そう言うと、少女は少年の手を両手で握った。
「なのに、記憶だけは消えないなんて変だよね。でも楽しい記憶は忘れないけど、辛い記憶は薄れていくんだって。だから……3年経てば、リニューアルできるよね。きっと綺麗に、生まれ変わっているよね」
 雨は上がり、空は燃えるような緋色に染まっていた。細く残る雨雲は、残照に照らし出されて金色に輝いている。神々しく美しい光景は、魔法のように全てを叶えてくれるように思われて少年は頷いた。
 少女は少年の手を離し、少し寂しそうに微笑んだ。
 そして新学期、少年は事実を知った。数学教師は、あの夏祭りの後に少女の告発により教職を追われたのだと。少年のために、少女は嘘をついた。最初の嘘を見破ったと思った少年は、大きな嘘を見破ることが出来なかった。
 少女は、学校に戻っては来なかった。親戚を頼り転校したと噂で聞いたが、どこに行ったのか解らなかった。
 少年の手許には、小さくなった水風船。
 しかし3年後の夏祭りに、あの神社で少女に会えると、少年は確信していた。

                       おわり

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〔本文〕

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「夜店が開くのは、もっと涼しくなって人が集まってからだなぁ」
 背中に、しわがれた声を聞いて少年は振り返った。金属製の大きなタライを手にした男が、酒灼けした赤黒い顔に笑みを浮かべて立っている。声で想像した年齢より、若い男だった。
 少年は、無言で背を向けた。もう夏祭りなど、どうでも良かった。
「おまえ、なんだかヤバイ目付きしてるなぁ……。何があったか、何をしようってんだかしらねぇが、あまり良い雰囲気じゃないねぇ」
 誰の声も聞きたくない、誰も邪魔をするな。少年はまた、壁を作る。外界を遮断する。
「まあ、他人がどうこう言うつもりはねぇけどよ、暑いからこれ一つ持って行きな」
 手に押しつけられた、冷たい感触。
「男の子だから青いのがいいだろ? ほれ、落とすんじゃねぇぞ」
 男は輪ゴムで作られた小さな輪をゴツゴツとした短い指で引き延ばし、ポケットから出ていた左手の人差し指に引っかけた。伸びて、縮む、青い水風船。
 強い日差しに目を細め、少年は緑濃い木々の隙間に青い空をみた。気持ちの中で、何かが揺らいだ。
 しかし後戻りはしない、幾晩も考えて出した結論だ。心臓から身体を巡り、脳に辿り着いた血液は沸騰寸前だった。冷やす必要なんて無い、熱された血がもたらす思考こそ真実なのだ。
 やり遂げなければ、自分は臆病者に成り下がる。一生、自分で決めたことを何一つ完遂できない気がした。自分が自分になる為の、これは儀式だった。そうだ、誰のためでもない。きょう自分は生まれ変わるのだ、本物の自分に。
 少年は学校に着くと、鉄柵の校門を見上げた。鍵がかかっている。
 夏休み当番の教師が出入りする、通用門に廻った。インターフォンで呼び出せば、標的の数学教師が出てくるはずだ。インターフォンに指をかけたとき、手首に冷たいものがあたった。青い、水風船。
「あ、水風船。お祭りで買ってきたの?」
 意想外の声に、少年の手が止まった。
「まだ夜店、開く時間じゃないでしょ? どうしたの?」
 ショートカットの似合う、背の高い少女が明るい笑顔で少年の顔を覗き込んだ。
「変なオヤジに貰ったんだ……」
「えっ、いいなぁ……あたしも欲しいなぁ」
 少女は羨ましそうに、少し口を尖らせた。
「おまえ、ナンでここにいるんだよ」
 少年は苛々しながら少女を睨み付けた。
「きょう、ここで会えそうな気がしたから待ってたんだ」
「……何の為に?」
「謝らなくちゃ、いけないと思って」
 少年は驚いて目を見開き、少女から顔を背けた。
「……ざけんじゃねぇよっ!」
 夏休みに入ってすぐ、期末テストの点が悪かった少年は数学の補習を受けさせられた。3日間の補習は他にも数人いて、少女も一緒だったのだ。
 その日は、補習の最終日だった。少女は皆が終わる頃になって現れ、一人で補習を受ける事になった。時間を間違えたと笑う少女をからかい、少年は他の生徒と共に校舎を後にした。しかし、近くの神社の夏祭りに誘うつもりで引き返したのだ。
 この日に誘わなければ、わざわざ電話をしなくてはならない。そんな勇気はなく、何よりも照れ臭かった。
 そして、目撃してしまったのだ。
 数学教師は、普段から少女に対して嫌がらせを言うことが多かった。高校一年ながら、少女の体格は大人の女性を思わせた。胸の大きさは頭の軽るさに比例すると、侮辱したこともあった。おっとりとした性格の少女は困ったように笑うばかりだったが、少年は、はらわたの煮えくりかえる思いがしていたのだ。
 少女の白くふっくらした柔らかそうな頬をみるとき、薄いブラウスから透ける下着の下を夢想した。それは少年にとって、神聖で犯しがたいものだった。数学教師に憎悪を募らせながら、いつしか少年の中で少女の存在が大きくなっていった。
 数学教師は、気が付かなかったかもしれない。だが抵抗する少女の泣き顔が、一瞬、少年の方を向いた。少年は何も出来ず、その場から逃げた。

(続く)

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◆台風が近づいています。
 暴風雨で軋む家鳴りを聞きながら朝を迎えたとき、眩しい青空に自然の偉大さを感じました。

 都会では、感じられない感覚。

 都会には都会の、嵐が来ます。
<本文>

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 少年の決意は、既に動かし難いほど固まっていた。
 抑えられない衝動が、一刻も早く行動しろと気持ちを駆り立てた。だが少年は、じっと耐えた。計画性のない行動は、目的を達せず失敗するに決まっている。そのくらいの判断力は、失わずにいられた。
 幾晩も、寝ずに考えた結果だった。
 破滅のシナリオを百通り以上も考え、成功の可能性がないものから消していった。巧みに考えた罠は翌日になると色あせ陳腐に見えたし、密告も不確実に思えた。そうなると、もう、これしか方法はない。
 自分の手で、息の根を止める。
 最終結論に至った瞬間、背中を冷たいものが伝った。しかし息苦しさと共に、自分の顔が紅潮してくるのがわかった。興奮していた。
 少年は、学習机の中に大事にしまってあった細長い箱を取り出した。大学時代に登山部に在籍し、アルプスまで遠征したことがある父親が高校入学祝いに買ってくれた、ガーバー社製のフォールディングナイフ。自分と同じく山を愛する男になれと、父親は少年に期待し例年キャンプに連れて行った。だが少年は、登山クラブのある高校に入りながらも入部をためらっていた。
 ウサギや野鳥、魚をさばくのが嫌いだった。ぬるぬるする血や、ぐちゃぐちゃの内蔵。毛皮の下にある、白い脂肪。調理して口にしたとき、処理し残した体毛のざりざりとした感触に、胃の中のものまで吐き出した。キャンプで男らしさを誇示したい父は顔をしかめ、「まだ子供だから仕方ない」と苦笑した。
 父の期待通りの男にはなれない。涙を浮かべ、吐きながら少年は思った。しかし、言葉にすることが出来なかった。
 野生動物と違い、硬い毛や皮に覆われていない人間の皮膚をナイフは容易に切り裂くだろう。肋骨にあたらないように、狙いは正確にしなければならない。刃渡りは心臓に届く長さだが、横に滑らせ手首を捻るのが確実だ。おそらく父は、ウサギもさばけなかった息子が、まさか自分の贈ったナイフで人を殺すとは夢にも思わないだろう。父を見返す事が出来る。行動の理由を一つ追加したとき、少年は密かな悦びと満足感を得ることが出来た。
 自室の窓から聞こえるアブラゼミの声は共鳴し、頭に直接ひびく耳鳴りのようだ。高い熱と湿度を保ち、動かない大気を絶え間なく震わせている。少年は、自分だけが音の隔壁で外界から遮断されているような錯覚に捕らわれた。この隔離された世界なら、何でも出来る。自分だけが正しいと、信じたままに行動できる気がした。
 ケースから取り出したナイフを握りしめ、その手を学生ズボンのポケットに突っ込んだ。
 灼けたアスファルトから、陽炎のように熱気が這い上がりまとわりつく。皮膚と外気の温度差に、汗とは違う湿り気が生じた。その一瞬だけ風を涼しく感じたが、耐えきれなくなった自律神経により汗が吹き出ると混じり合って雫となった。眉間を、首筋を、脇を、伝い落ちる不快な感触。
 ナイフを握る手が汗ばみ、べたついた。掌を拭おうと放した途端、ナイフはポケットの薄い生地にずしりと沈んだ。あわてて握りなおし、深く息を吸い込む。ほこり臭い熱気が、喉を焼いた。渇いた口腔内が、ねばねばする。唾液がでない。
 緊張すると掌や足の裏にある汗腺から汗が出る、唾液が出なくなる。クライミングのレクチャーを受けたとき、父親から聞いた知識だった。自分は緊張しているのだろうか、どこか現実感が感じられない。
 音の隔壁を、鳥のさえずりが切り裂いた。高く澄んだ、さえずり。心地よいリズム、短く、長く、跳んで、弾けた。追いかけるように、軽い打音。軽快に、楽しげに。
 少年は足を止め、うつむき加減だった顔を上げると自分を隔離していた壁の向こうを覗いた。そこには鉄パイプを組み、オレンジ色のビニール屋根を張った屋台が幾つも並んでいる。記憶をたどり、学校近くに神社があったことを思いだした。どうやら今日が、夏祭りらしい。鳥のさえずりは、境内に流れるお囃子の笛だった。

<続く>

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◆「鬼撤」は公募用に書いたので、結果が出るまで取り下げます。でも、「勝手に第2部」連載予定(笑)

 「ライバル出現で、将?くんの信頼が奪われそうな慶則くん。ハラハラドキドキ、もう大変だっ!!
 どうする慶則くん、将?くんを取り戻すことが出来るかな?」

 内容はこんな感じになる予定です(笑)

 

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