【短編小説】錆びた連鎖
2006年1月22日 【短編小説】◆文字数が増えたので
4500字を一度に載せるとかなり読みにくいだろうと実験してみる(笑)
◆内容的に
少しダークです。
苦手な方はご注意ください。
:::::::::::::::::::::::::::::
『錆びた連鎖』
目の前で震える女を、俺は冷たく見下ろした。
両手を後ろ手に縛られ、埃臭い工事現場の資材の隙間に女は踞っている。薄い花柄のスカートは泥まみれで、レースに縁取られた首元が大きく開いたTシャツは破れて下着が覗いていた。中で柔らかそうな白いふくらみが、大きく上下している。
「ごめんなさい、ごめんなさい……許して、殺さないで」
その言葉は、俺になんの感情も呼び起こしはしない。俺の感情は、いったい何処へいっちまったんだろう。女の姿に欲情もしなければ、憐れみも感じない。目の前にあるのは、ただのモノにしか思えなかった。
今度は何か、感じられるかと期待したのに。
やはり何も、感じることが出来なかった。
目の前で泣き喚く女に、俺は俺の母さんを重ねる。特に似た女を選んでいるわけじゃない。俺に流れる淀んだ血が脳味噌を掻き回し、腐らせ、その腐臭が鼻についてどうにも我慢が出来なくなった時、夜の街を歩き回る。そして若い女を見つけ、後を付け、後ろから首の付け根を殴って気を失わせるんだ。軽そうな女がいい、運ぶのに時間を取られたくないからな。
ああ……だけど年齢的には、あの頃の母さんと同じくらいかもしれない。俺が十歳の頃、母さんがいなくなった時の年齢……二十代後半くらいだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、もうしません……許してよ母さん。お願いだよ、ぶたないで」
子供の頃、俺はその言葉だけを繰り返してきた。だけど母さんは、俺を殴るのをやめない。謝れば謝るほど、泣けば泣くほど、激情に駆られたように俺の頬を頭を、背中を、腕を足を、母さんの手が腫れて感覚がなくなるまで殴ったんだ。
俺は腹を庇うのがやっとだった。腹を殴られたら、吐いてしまうから。吐けばまた、汚れ物がでたと言って母さんが怒る。そしたら、今度は柄物を持ってきて俺を殴り始めるから。一晩中、俺が気を失っても母さんは殴るのをやめなかった。
俺はただ、母さんが殴り疲れて放心するまで待つしかなかった。母さんは、その後で必ず泣きながら謝るんだ。
「ごめんね、痛かった? ごめんね、酷いことしちゃったね。ごめんね……ごめんね……」 叩かれる理由なんか、いつだって些細なことだ。
母さんが仕事から帰ってきたとき、たまたま俺が家にいなかったから「何処に行っていたのよ! あんたが遊んでいるときだって、母さんは仕事してるってのに!」そう言って平手で俺を叩く。一発、二発、三発……。エスカレートしていくのを、母さんは自分で止めることが出来ない。
家にいて洗濯をたたんだり、掃除をしていても必ず気に入らないことを見つけて俺を叩く。置物の位置が違うとか、読もうと思った新聞がないとか、大切なブラウスに変なたたみ皺がついたとか……。
ああまた、叩かれる。日課となった暴力に、俺は抗う気も起きない。母さんは、弱い人なんだ。たかだか十歳の俺に力を誇示しなくちゃ、自分が自分で居られないんだ、きっと。だから俺は、我慢してきた。ずっと、ずっと、ずうっと……。
「ごめんなさい……お願い……殺さないで……」
鈍く光るナイフをかざすと、大抵の女はそう言った。「自分に非があるなら、謝るから許して欲しい」と。
だけど、残念なことに理由なんか無いんだ。理由が無くても、不条理な暴力は受けるんだよ。謝っても、無駄なんだよ。
感情を呼び起こしてくれる誰かが現れるまで、俺は同じ事を繰り返し続けるのだろうか。脳裏をよぎった疑問さえ、乾いた風のようだった。
***
口の中がざらざらする。ああ、また、俺の身体中を汚物が逆流しているんだ。鼻につく、鼻について胸が悪くなる。酸っぱい唾液が舌の奥を刺激して、無理矢理飲み込もうとすると胃の中身が反乱を起こすんだ。
「すいません、店長、気分悪いっす。あがらしてもらいたいんですけど……」
二十四時間営業のレンタルビデオ店も、深夜の二時ともなれば客は少ない。
「んー、またかぁ……? おまえ今週二度目だぞ、以前も気分が悪いと言って早あがりする事あったけど、ひと月に二・三回だったじゃないか。どっか悪いなら、医者に行けよ。苦学生なのは分かるけど、身体壊したら本末転倒だ」
俺よりも五歳しか違わないが、既にレンタルビデオ屋を生涯の仕事に決めたらしい店長が心配そうな顔を作って見せた。
偽善者め……少ないとはいえ、客が居るから体裁を取り繕っていやがる。そんなふうに考えることはあっても、何の感情も湧くことはない。俺は辛そうな愛想笑いを演じると、店名の入ったエプロンを外してスタッフルームに引っ込んだ。
この不快感は、あの女が店に入ってきたときからだ。
あの女は、週末になると決まって男連れでやってきた。そして必ず甘ったるい恋愛映画を借りていく。男の方が戦争アクションやホラーを借りようとすると、甘えた声を出して拒否するんだ。あんな演技を信じているのだろうか、男はいつも女の言うことを聞いて選び出した映画を棚に戻す……。
だが今夜、女は一人だった。
俺は一階が駐車場になった店を出て、階段の裏手で女を待った。もしや後で男が来るのかもしれない、待ち合わせかもしれない。考えとは裏腹に、俺は期待の糸を繋ぐ。すると、それほど時間をおかずに女は一人で階段を下りてきた。
あとをつける……人気のない場所から、さらに人気のない場所へ。
気配を悟られない位置から走り、女の首の付け根を後ろから殴った。いつも持ち歩いているダンベルに、確かな手応え。女は小さく「は」と叫んで、糸の切れた操り人形よろしく、アスファルトに倒れ込んだ。
***
意識のない女を、ゆっくり眺めるのが好きだ。近場にあった小さな運送会社のガレージの片隅に、俺は女を担ぎ込んだ。
この女の髪は、良い匂いがした。最近の女達が使っているような、強い匂いじゃなかった。普通のシャンプーの匂い、誰かと一緒に風呂にはいった記憶を呼び覚ます匂い……。誰だろう、この女は誰だ?
「ふっ……んっ……」
女が目を覚ました。
「ひっ!」
いつもと同じ反応だ。次に口から吐き出されるのは命乞いの台詞、とめどもなく同じ台詞が繰り替えされる。十歳の俺のように、無駄で意味のない言葉を念仏のように唱える。だけど俺は、あの時の母さんのように優越感も嗜虐的な満足感も感じることが出来ない。何故なんだろう……。
「私を殺すんでしょう?」
女の言葉に、俺は一瞬耳を疑った。
「最近この辺りで通り魔殺人があったから、この一週間、わざと深夜に人気のないところを歩いていたんです……」
ただの強がりか? それとも俺の意表をつき、逃れる算段をするつもりなのか? 女の目には恐怖の色が浮かび、声も震え擦れている。死にたいわけではないだろうが……。
「死にたかったの」
女は俺の手にあるナイフに視線を走らせてから、俯いた。
「初めてだな、そんな酔狂な台詞を言った女は」
いつもの展開と、異なる所為なのか……? ヘソの辺りが、ちりちりするのを俺は感じていた。
「生きていたくなくて、死んでしまいたくて……あなたが犯人でしょう? お願いだから殺して……新聞で読んだの、性的な乱暴をしない犯人だって。だから私……」
俺は、何も言わずに女を見た。普通に可愛い女だ、歳は二十五歳くらいか少し上かもしれない。栗色にカラーリングしたセミロングヘア、白い肌、バラ色の唇。下校時に立ち寄る女子高生ほど化粧は濃くないし、けばけばしいマスカラもない。ストライプ柄の薄いピンクのシャツ、白いスカート。バックから覗くビデオタイトルに俺が目を移すと、女が小さく声を上げた。
「あっ、あなた……」
ようやく俺が、レンタルビデオ店のカウンターにいる人間だと気が付いたらしい。
「今日は一人だったな、彼氏に頼まれたのか」
映画のタイトルは戦争アクションだった。
「別れたんです……私のような完全な女は息が詰まる、良い女の見本のようでつまらないって言われたんです。そうなるように一生懸命努力してきたのに……無駄だった。彼は、欠点のある女が可愛げがあっていい、私といるのは窮屈だって……。今までの努力は何だったのか、彼に好かれようと思って頑張ったことは全て逆効果だったなんて……もう私は、自分がどうすればいいか解らないんです。自分を創る手本を失ってしまったんです……」
女が勝手に話し続けるうちに、ヘソの辺りのちりちりしたものが、だんだん熱くなってきた。
「馬鹿じゃねえの? 別の男を見つけて手本にしろよ」
「……今さら違う人間にはなれないんです」
「違う人間になろうと思って、好きでもないビデオ借りたんじゃないの?」
「それは……」
「あんたさぁ、見た目イイセンいってるよ。諦めるの、早くねぇか?」
「えっ……」
女は俺を真っ直ぐ見た。
「そんなこと言われたの、初めてです……」
「それはさぁ、あんたが彼氏しか見てなかったからでしょう?」
離れた街灯の光では判断しかねたが、女の頬に赤みが射したような気がした。
「……ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、俺の背骨に電流が流れた。
「ありが……とう……だと?」
シャンプーの匂いが、目の前の女を別の女の姿に変える。
俺が欲しいモノ。
俺が失ったモノ。
俺が望んだモノ。
ヘソの辺りでちりちりしていたモノが、うずを捲きながら喉元まで昇ってきた。両手が震え、頭の後ろが痺れてジンジンと鳴る。気が遠くなるような、腰が砕けるような、気持ちの良い感覚に包み込まれて俺の全身は震えた。
そうだ、俺の身体は知っていた。ただ、俺の頭が理解していなかったに過ぎない。ようやく身体に感じる感覚が、意識と融合して理解することが出来た。絡んだまま錆びてしまった鎖が、するりと解けて鈍く光り出す……。
初めてのバイト代で買った小さなプレゼントを、母さんは包みも開けずに投げ捨てた。
「おまえ馬鹿か? ……現金を持ってきな」
あのとき俺は、ありがとうと言って欲しかった。言ってくれると、信じていた。裏切られた喜びは、唐突に違う感情にすり替わる。
血塗られた手を見たとき、俺は何も感じなかった。いや、感じることを気持ちのどこかで否定してしまったんだ、あの時から。小さな罪悪感が、その感情を認めさせなかった。
「礼を言うのは俺の方さ……あんたのおかげで、ようやく解ったよ。俺が何のために女を殺してきたのか、何を求めていたのか。俺が欲しかったのは、ありがとうの一言だったんだなぁ……それが解るまでに随分無駄な労力をつかっちまった」
女の目に、僅かな希望の光が灯る。
「良かったですね……知りたかった事が解って……。あっ、あの……私もなんだか死にたいと思わなくなったみたい……。あなたのことは黙ってます、誰にも言わない、だから……」
俺はナイフを見つめると、爽やかな気持ちで笑った。
「そうか、生きる気になってくれたのかぁ……そいつは良かった。だけど……何が俺の感情に蓋をしていたか、ようやく解ったんだぜ? あの女を殺したときに感じたのは、紛れもなく悦びだった。悪いのはあの女だ、俺が罪悪感を感じる必要なんか無かったんだ……。だからさぁ……これからは楽しむことが出来るじゃないか……ありがとう……な」
ナイフを女の胸に滑らせながら、俺は満たされた気持ちで湧き上がる感情を受け止めた。
(終)
:::::::::::::::::::::::::::::
◆よろしければ感想をお願いいたします。
http://form1.fc2.com/form/?id=81338
4500字を一度に載せるとかなり読みにくいだろうと実験してみる(笑)
◆内容的に
少しダークです。
苦手な方はご注意ください。
:::::::::::::::::::::::::::::
『錆びた連鎖』
目の前で震える女を、俺は冷たく見下ろした。
両手を後ろ手に縛られ、埃臭い工事現場の資材の隙間に女は踞っている。薄い花柄のスカートは泥まみれで、レースに縁取られた首元が大きく開いたTシャツは破れて下着が覗いていた。中で柔らかそうな白いふくらみが、大きく上下している。
「ごめんなさい、ごめんなさい……許して、殺さないで」
その言葉は、俺になんの感情も呼び起こしはしない。俺の感情は、いったい何処へいっちまったんだろう。女の姿に欲情もしなければ、憐れみも感じない。目の前にあるのは、ただのモノにしか思えなかった。
今度は何か、感じられるかと期待したのに。
やはり何も、感じることが出来なかった。
目の前で泣き喚く女に、俺は俺の母さんを重ねる。特に似た女を選んでいるわけじゃない。俺に流れる淀んだ血が脳味噌を掻き回し、腐らせ、その腐臭が鼻についてどうにも我慢が出来なくなった時、夜の街を歩き回る。そして若い女を見つけ、後を付け、後ろから首の付け根を殴って気を失わせるんだ。軽そうな女がいい、運ぶのに時間を取られたくないからな。
ああ……だけど年齢的には、あの頃の母さんと同じくらいかもしれない。俺が十歳の頃、母さんがいなくなった時の年齢……二十代後半くらいだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、もうしません……許してよ母さん。お願いだよ、ぶたないで」
子供の頃、俺はその言葉だけを繰り返してきた。だけど母さんは、俺を殴るのをやめない。謝れば謝るほど、泣けば泣くほど、激情に駆られたように俺の頬を頭を、背中を、腕を足を、母さんの手が腫れて感覚がなくなるまで殴ったんだ。
俺は腹を庇うのがやっとだった。腹を殴られたら、吐いてしまうから。吐けばまた、汚れ物がでたと言って母さんが怒る。そしたら、今度は柄物を持ってきて俺を殴り始めるから。一晩中、俺が気を失っても母さんは殴るのをやめなかった。
俺はただ、母さんが殴り疲れて放心するまで待つしかなかった。母さんは、その後で必ず泣きながら謝るんだ。
「ごめんね、痛かった? ごめんね、酷いことしちゃったね。ごめんね……ごめんね……」 叩かれる理由なんか、いつだって些細なことだ。
母さんが仕事から帰ってきたとき、たまたま俺が家にいなかったから「何処に行っていたのよ! あんたが遊んでいるときだって、母さんは仕事してるってのに!」そう言って平手で俺を叩く。一発、二発、三発……。エスカレートしていくのを、母さんは自分で止めることが出来ない。
家にいて洗濯をたたんだり、掃除をしていても必ず気に入らないことを見つけて俺を叩く。置物の位置が違うとか、読もうと思った新聞がないとか、大切なブラウスに変なたたみ皺がついたとか……。
ああまた、叩かれる。日課となった暴力に、俺は抗う気も起きない。母さんは、弱い人なんだ。たかだか十歳の俺に力を誇示しなくちゃ、自分が自分で居られないんだ、きっと。だから俺は、我慢してきた。ずっと、ずっと、ずうっと……。
「ごめんなさい……お願い……殺さないで……」
鈍く光るナイフをかざすと、大抵の女はそう言った。「自分に非があるなら、謝るから許して欲しい」と。
だけど、残念なことに理由なんか無いんだ。理由が無くても、不条理な暴力は受けるんだよ。謝っても、無駄なんだよ。
感情を呼び起こしてくれる誰かが現れるまで、俺は同じ事を繰り返し続けるのだろうか。脳裏をよぎった疑問さえ、乾いた風のようだった。
***
口の中がざらざらする。ああ、また、俺の身体中を汚物が逆流しているんだ。鼻につく、鼻について胸が悪くなる。酸っぱい唾液が舌の奥を刺激して、無理矢理飲み込もうとすると胃の中身が反乱を起こすんだ。
「すいません、店長、気分悪いっす。あがらしてもらいたいんですけど……」
二十四時間営業のレンタルビデオ店も、深夜の二時ともなれば客は少ない。
「んー、またかぁ……? おまえ今週二度目だぞ、以前も気分が悪いと言って早あがりする事あったけど、ひと月に二・三回だったじゃないか。どっか悪いなら、医者に行けよ。苦学生なのは分かるけど、身体壊したら本末転倒だ」
俺よりも五歳しか違わないが、既にレンタルビデオ屋を生涯の仕事に決めたらしい店長が心配そうな顔を作って見せた。
偽善者め……少ないとはいえ、客が居るから体裁を取り繕っていやがる。そんなふうに考えることはあっても、何の感情も湧くことはない。俺は辛そうな愛想笑いを演じると、店名の入ったエプロンを外してスタッフルームに引っ込んだ。
この不快感は、あの女が店に入ってきたときからだ。
あの女は、週末になると決まって男連れでやってきた。そして必ず甘ったるい恋愛映画を借りていく。男の方が戦争アクションやホラーを借りようとすると、甘えた声を出して拒否するんだ。あんな演技を信じているのだろうか、男はいつも女の言うことを聞いて選び出した映画を棚に戻す……。
だが今夜、女は一人だった。
俺は一階が駐車場になった店を出て、階段の裏手で女を待った。もしや後で男が来るのかもしれない、待ち合わせかもしれない。考えとは裏腹に、俺は期待の糸を繋ぐ。すると、それほど時間をおかずに女は一人で階段を下りてきた。
あとをつける……人気のない場所から、さらに人気のない場所へ。
気配を悟られない位置から走り、女の首の付け根を後ろから殴った。いつも持ち歩いているダンベルに、確かな手応え。女は小さく「は」と叫んで、糸の切れた操り人形よろしく、アスファルトに倒れ込んだ。
***
意識のない女を、ゆっくり眺めるのが好きだ。近場にあった小さな運送会社のガレージの片隅に、俺は女を担ぎ込んだ。
この女の髪は、良い匂いがした。最近の女達が使っているような、強い匂いじゃなかった。普通のシャンプーの匂い、誰かと一緒に風呂にはいった記憶を呼び覚ます匂い……。誰だろう、この女は誰だ?
「ふっ……んっ……」
女が目を覚ました。
「ひっ!」
いつもと同じ反応だ。次に口から吐き出されるのは命乞いの台詞、とめどもなく同じ台詞が繰り替えされる。十歳の俺のように、無駄で意味のない言葉を念仏のように唱える。だけど俺は、あの時の母さんのように優越感も嗜虐的な満足感も感じることが出来ない。何故なんだろう……。
「私を殺すんでしょう?」
女の言葉に、俺は一瞬耳を疑った。
「最近この辺りで通り魔殺人があったから、この一週間、わざと深夜に人気のないところを歩いていたんです……」
ただの強がりか? それとも俺の意表をつき、逃れる算段をするつもりなのか? 女の目には恐怖の色が浮かび、声も震え擦れている。死にたいわけではないだろうが……。
「死にたかったの」
女は俺の手にあるナイフに視線を走らせてから、俯いた。
「初めてだな、そんな酔狂な台詞を言った女は」
いつもの展開と、異なる所為なのか……? ヘソの辺りが、ちりちりするのを俺は感じていた。
「生きていたくなくて、死んでしまいたくて……あなたが犯人でしょう? お願いだから殺して……新聞で読んだの、性的な乱暴をしない犯人だって。だから私……」
俺は、何も言わずに女を見た。普通に可愛い女だ、歳は二十五歳くらいか少し上かもしれない。栗色にカラーリングしたセミロングヘア、白い肌、バラ色の唇。下校時に立ち寄る女子高生ほど化粧は濃くないし、けばけばしいマスカラもない。ストライプ柄の薄いピンクのシャツ、白いスカート。バックから覗くビデオタイトルに俺が目を移すと、女が小さく声を上げた。
「あっ、あなた……」
ようやく俺が、レンタルビデオ店のカウンターにいる人間だと気が付いたらしい。
「今日は一人だったな、彼氏に頼まれたのか」
映画のタイトルは戦争アクションだった。
「別れたんです……私のような完全な女は息が詰まる、良い女の見本のようでつまらないって言われたんです。そうなるように一生懸命努力してきたのに……無駄だった。彼は、欠点のある女が可愛げがあっていい、私といるのは窮屈だって……。今までの努力は何だったのか、彼に好かれようと思って頑張ったことは全て逆効果だったなんて……もう私は、自分がどうすればいいか解らないんです。自分を創る手本を失ってしまったんです……」
女が勝手に話し続けるうちに、ヘソの辺りのちりちりしたものが、だんだん熱くなってきた。
「馬鹿じゃねえの? 別の男を見つけて手本にしろよ」
「……今さら違う人間にはなれないんです」
「違う人間になろうと思って、好きでもないビデオ借りたんじゃないの?」
「それは……」
「あんたさぁ、見た目イイセンいってるよ。諦めるの、早くねぇか?」
「えっ……」
女は俺を真っ直ぐ見た。
「そんなこと言われたの、初めてです……」
「それはさぁ、あんたが彼氏しか見てなかったからでしょう?」
離れた街灯の光では判断しかねたが、女の頬に赤みが射したような気がした。
「……ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、俺の背骨に電流が流れた。
「ありが……とう……だと?」
シャンプーの匂いが、目の前の女を別の女の姿に変える。
俺が欲しいモノ。
俺が失ったモノ。
俺が望んだモノ。
ヘソの辺りでちりちりしていたモノが、うずを捲きながら喉元まで昇ってきた。両手が震え、頭の後ろが痺れてジンジンと鳴る。気が遠くなるような、腰が砕けるような、気持ちの良い感覚に包み込まれて俺の全身は震えた。
そうだ、俺の身体は知っていた。ただ、俺の頭が理解していなかったに過ぎない。ようやく身体に感じる感覚が、意識と融合して理解することが出来た。絡んだまま錆びてしまった鎖が、するりと解けて鈍く光り出す……。
初めてのバイト代で買った小さなプレゼントを、母さんは包みも開けずに投げ捨てた。
「おまえ馬鹿か? ……現金を持ってきな」
あのとき俺は、ありがとうと言って欲しかった。言ってくれると、信じていた。裏切られた喜びは、唐突に違う感情にすり替わる。
血塗られた手を見たとき、俺は何も感じなかった。いや、感じることを気持ちのどこかで否定してしまったんだ、あの時から。小さな罪悪感が、その感情を認めさせなかった。
「礼を言うのは俺の方さ……あんたのおかげで、ようやく解ったよ。俺が何のために女を殺してきたのか、何を求めていたのか。俺が欲しかったのは、ありがとうの一言だったんだなぁ……それが解るまでに随分無駄な労力をつかっちまった」
女の目に、僅かな希望の光が灯る。
「良かったですね……知りたかった事が解って……。あっ、あの……私もなんだか死にたいと思わなくなったみたい……。あなたのことは黙ってます、誰にも言わない、だから……」
俺はナイフを見つめると、爽やかな気持ちで笑った。
「そうか、生きる気になってくれたのかぁ……そいつは良かった。だけど……何が俺の感情に蓋をしていたか、ようやく解ったんだぜ? あの女を殺したときに感じたのは、紛れもなく悦びだった。悪いのはあの女だ、俺が罪悪感を感じる必要なんか無かったんだ……。だからさぁ……これからは楽しむことが出来るじゃないか……ありがとう……な」
ナイフを女の胸に滑らせながら、俺は満たされた気持ちで湧き上がる感情を受け止めた。
(終)
:::::::::::::::::::::::::::::
◆よろしければ感想をお願いいたします。
http://form1.fc2.com/form/?id=81338
コメント