【短編小説】 熱帯夜(3)
2005年8月29日 【短編小説】〔本文〕
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「あのね、誤解してるかもしれないと思ったんだ。あのとき、椅子に座り損ねて転んじゃったから助け起こしてもらったんだよ。ホントだよ? だから……」
必死に考えた言い訳だと、すぐに見破ることができた。どう見ても、そんな状況ではなかったからだ。
「嘘つくな……だけど安心しろ、俺がアイツを、ぶっ殺してやるからさ。ナイフも用意した、ガーバー社のナイフでハンティングに使う凄いヤツなんだぜ。これで心臓を一突きしてやる」
少女の前で、少年は得意だった。最高にカッコイイ台詞を、言ったつもりだった。
行動理由は、誰にも知られてはいけない。だが少年は、少女にだけ解ってもらいたいと思った。気付かれないようにネットカフェのPCから少女の携帯にメールを送った。
『救ってやる』と。
それはあの時、あの場所で、少年が言うべき言葉だった。言わなければならない、言葉だった。だが少年は言えなかった。いつもそうだ、いま言わなくてはいけない言葉を言うことが出来ない。臆病で、卑怯で、矮小な自分。
学校を飛び出した少年は、家にたどり着く前に悔しさと、情けなさで息苦しくなった。ウサギの肉を吐いたときの父の顔がフラッシュバックして、胃液が逆流した。踞って、吐いた。吐きながら泣いた。両腕の拳を、何度も地面に叩きつけた。乾いた土に、涙と血が黒い染みを作った。
本当の自分になる、その後のことはどうでもいい。あのメールだけで、少女が少年の行動を予測することは出来ないだろう。だが全てが終わった後で、気が付いてくれるかもしれない。気が付いて欲しい、そう思った。
事前に気が付いて、止めに来るかもしれない。たったいま少年が口にした台詞は、その時に備えて考えていたものだった。少女は止めるだろう、やめてくれと泣くかもしれない。制止を振り切って、崇高な儀式は行われるのだ。
「メール、誰からきたのか、すぐに解ったよ。だから、朝から待ってたんだ」
青ざめた顔で少女は、歪んだ笑みを浮かべた。
「そう、本当は見られてしまった通り。でもね、すぐに他の先生に見つかって何もなかったんだよ。大丈夫だったんだよ。数学の先生は、もうこの学校にはいない。どこに行ったかなんか知らない。調べても、たぶん誰も教えてくれない。だから……」
期待していた涙と、違う涙が少女の目からあふれ出した。
「馬鹿なこと考えたらダメだよ、そんなこと、君がすることじゃない。自分を大切にしてよ、あたしは何ともないんだから。本当に、何ともないんだから」
身体中の力が抜けて、少年は呆然と立ちつくした。視界に映る全ての景色が色を失い、ただボンヤリ少女を見つめた。思考は停止し、渇いた笑いが口を突いて出た。
結局、何も出来なかった。思い込みで、自分の正義は空回りしていただけだった。少年の、空っぽになった身体にアブラゼミの共鳴が流れ込む。額を伝う汗が目にはいると、しみて涙が出そうになった。ナイフが手から滑り落ちて、ポケットに沈んだ。最高に格好悪いと思いながら、気持ちのやり場がどこにも見つからなかった。
「でも、ありがとう……」
少女は少年の手を取り、水風船を揺らした。ポケットから手を出し、少年は水風船を手に取った。それはまだ、冷たかった。
「ねえ、夏祭りに行ってみようか」
いままで晴れ渡っていた空に、大きな入道雲が湧いていた。地上から渦となり巻き上がった熱い上昇気流が、見る間に雲を運ぶ。気が付けば空に暗雲が立ちこめ、頬に一粒の雨が当たった。蒼白い稲妻が、宙を裂いた。暫くして、轟音が大気を震わせた。
「きゃっ」
少女は小さく叫ぶと肩をすくめ、残念そうに少年を見た。
「これじゃぁ、お祭りも台無しだね」
少年は、乱暴に少女の手を取り歩き出した。足早に、増え始めた夏祭りの人混みを掻き分けた。やがて境内に着くと、水風船の男を捜した。間断なく降り始めた雨の中、男は鳥居の近くで恨めしそうに空を見上げていた。
「おじさん、水風船が欲しいんだ」
少年は、ポケットからナイフを取り出した。格好悪い自分を、ナイフと一緒に捨ててしまいたかった。
「だけど、お金を持ってないんだ。このナイフと交換してくれないか」
男はじっと少年を見つめ、笑った。そして赤い水風船を一つ、少女に差し出した。
「この雨だ、今日は店をたたもうと思ってね。祭りに水が入っちゃ、水風船屋もあがったりさ。こいつはサービスだよ、持っていきな。それからくれぐれも、これの使い道を間違えるんじゃねえぞ」
少年の手には、地面を殴った時に出来た傷があった。その手を男はゴツゴツとした手で包み込み、ナイフを押し戻した。
雨は滝のように降り注ぎ、少年も少女も全身ずぶ濡れになった。
「なんだか、シャワーをあびてるみたいで気持ちいいな」
少女が笑った。少年は、濡れたブラウスから透ける薄ピンク色の少女の肌に戸惑った。
「帰ろうか」
少女から目を逸らし、少年は小さく呟いた。
「そうだね」
少女は小さく返事をした。
水風船をぶら下げて、二人はしっかり手を繋いだ。少女の家の前まできても、少年は手を放すことが出来なかった。雨は小降りになりつつあった。
「あのね、知ってる? 人間の細胞は3年で全部入れ替わるんだって。だから、3年後の自分は、全く新しい自分になってるんだよ」
そう言うと、少女は少年の手を両手で握った。
「なのに、記憶だけは消えないなんて変だよね。でも楽しい記憶は忘れないけど、辛い記憶は薄れていくんだって。だから……3年経てば、リニューアルできるよね。きっと綺麗に、生まれ変わっているよね」
雨は上がり、空は燃えるような緋色に染まっていた。細く残る雨雲は、残照に照らし出されて金色に輝いている。神々しく美しい光景は、魔法のように全てを叶えてくれるように思われて少年は頷いた。
少女は少年の手を離し、少し寂しそうに微笑んだ。
そして新学期、少年は事実を知った。数学教師は、あの夏祭りの後に少女の告発により教職を追われたのだと。少年のために、少女は嘘をついた。最初の嘘を見破ったと思った少年は、大きな嘘を見破ることが出来なかった。
少女は、学校に戻っては来なかった。親戚を頼り転校したと噂で聞いたが、どこに行ったのか解らなかった。
少年の手許には、小さくなった水風船。
しかし3年後の夏祭りに、あの神社で少女に会えると、少年は確信していた。
おわり
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「あのね、誤解してるかもしれないと思ったんだ。あのとき、椅子に座り損ねて転んじゃったから助け起こしてもらったんだよ。ホントだよ? だから……」
必死に考えた言い訳だと、すぐに見破ることができた。どう見ても、そんな状況ではなかったからだ。
「嘘つくな……だけど安心しろ、俺がアイツを、ぶっ殺してやるからさ。ナイフも用意した、ガーバー社のナイフでハンティングに使う凄いヤツなんだぜ。これで心臓を一突きしてやる」
少女の前で、少年は得意だった。最高にカッコイイ台詞を、言ったつもりだった。
行動理由は、誰にも知られてはいけない。だが少年は、少女にだけ解ってもらいたいと思った。気付かれないようにネットカフェのPCから少女の携帯にメールを送った。
『救ってやる』と。
それはあの時、あの場所で、少年が言うべき言葉だった。言わなければならない、言葉だった。だが少年は言えなかった。いつもそうだ、いま言わなくてはいけない言葉を言うことが出来ない。臆病で、卑怯で、矮小な自分。
学校を飛び出した少年は、家にたどり着く前に悔しさと、情けなさで息苦しくなった。ウサギの肉を吐いたときの父の顔がフラッシュバックして、胃液が逆流した。踞って、吐いた。吐きながら泣いた。両腕の拳を、何度も地面に叩きつけた。乾いた土に、涙と血が黒い染みを作った。
本当の自分になる、その後のことはどうでもいい。あのメールだけで、少女が少年の行動を予測することは出来ないだろう。だが全てが終わった後で、気が付いてくれるかもしれない。気が付いて欲しい、そう思った。
事前に気が付いて、止めに来るかもしれない。たったいま少年が口にした台詞は、その時に備えて考えていたものだった。少女は止めるだろう、やめてくれと泣くかもしれない。制止を振り切って、崇高な儀式は行われるのだ。
「メール、誰からきたのか、すぐに解ったよ。だから、朝から待ってたんだ」
青ざめた顔で少女は、歪んだ笑みを浮かべた。
「そう、本当は見られてしまった通り。でもね、すぐに他の先生に見つかって何もなかったんだよ。大丈夫だったんだよ。数学の先生は、もうこの学校にはいない。どこに行ったかなんか知らない。調べても、たぶん誰も教えてくれない。だから……」
期待していた涙と、違う涙が少女の目からあふれ出した。
「馬鹿なこと考えたらダメだよ、そんなこと、君がすることじゃない。自分を大切にしてよ、あたしは何ともないんだから。本当に、何ともないんだから」
身体中の力が抜けて、少年は呆然と立ちつくした。視界に映る全ての景色が色を失い、ただボンヤリ少女を見つめた。思考は停止し、渇いた笑いが口を突いて出た。
結局、何も出来なかった。思い込みで、自分の正義は空回りしていただけだった。少年の、空っぽになった身体にアブラゼミの共鳴が流れ込む。額を伝う汗が目にはいると、しみて涙が出そうになった。ナイフが手から滑り落ちて、ポケットに沈んだ。最高に格好悪いと思いながら、気持ちのやり場がどこにも見つからなかった。
「でも、ありがとう……」
少女は少年の手を取り、水風船を揺らした。ポケットから手を出し、少年は水風船を手に取った。それはまだ、冷たかった。
「ねえ、夏祭りに行ってみようか」
いままで晴れ渡っていた空に、大きな入道雲が湧いていた。地上から渦となり巻き上がった熱い上昇気流が、見る間に雲を運ぶ。気が付けば空に暗雲が立ちこめ、頬に一粒の雨が当たった。蒼白い稲妻が、宙を裂いた。暫くして、轟音が大気を震わせた。
「きゃっ」
少女は小さく叫ぶと肩をすくめ、残念そうに少年を見た。
「これじゃぁ、お祭りも台無しだね」
少年は、乱暴に少女の手を取り歩き出した。足早に、増え始めた夏祭りの人混みを掻き分けた。やがて境内に着くと、水風船の男を捜した。間断なく降り始めた雨の中、男は鳥居の近くで恨めしそうに空を見上げていた。
「おじさん、水風船が欲しいんだ」
少年は、ポケットからナイフを取り出した。格好悪い自分を、ナイフと一緒に捨ててしまいたかった。
「だけど、お金を持ってないんだ。このナイフと交換してくれないか」
男はじっと少年を見つめ、笑った。そして赤い水風船を一つ、少女に差し出した。
「この雨だ、今日は店をたたもうと思ってね。祭りに水が入っちゃ、水風船屋もあがったりさ。こいつはサービスだよ、持っていきな。それからくれぐれも、これの使い道を間違えるんじゃねえぞ」
少年の手には、地面を殴った時に出来た傷があった。その手を男はゴツゴツとした手で包み込み、ナイフを押し戻した。
雨は滝のように降り注ぎ、少年も少女も全身ずぶ濡れになった。
「なんだか、シャワーをあびてるみたいで気持ちいいな」
少女が笑った。少年は、濡れたブラウスから透ける薄ピンク色の少女の肌に戸惑った。
「帰ろうか」
少女から目を逸らし、少年は小さく呟いた。
「そうだね」
少女は小さく返事をした。
水風船をぶら下げて、二人はしっかり手を繋いだ。少女の家の前まできても、少年は手を放すことが出来なかった。雨は小降りになりつつあった。
「あのね、知ってる? 人間の細胞は3年で全部入れ替わるんだって。だから、3年後の自分は、全く新しい自分になってるんだよ」
そう言うと、少女は少年の手を両手で握った。
「なのに、記憶だけは消えないなんて変だよね。でも楽しい記憶は忘れないけど、辛い記憶は薄れていくんだって。だから……3年経てば、リニューアルできるよね。きっと綺麗に、生まれ変わっているよね」
雨は上がり、空は燃えるような緋色に染まっていた。細く残る雨雲は、残照に照らし出されて金色に輝いている。神々しく美しい光景は、魔法のように全てを叶えてくれるように思われて少年は頷いた。
少女は少年の手を離し、少し寂しそうに微笑んだ。
そして新学期、少年は事実を知った。数学教師は、あの夏祭りの後に少女の告発により教職を追われたのだと。少年のために、少女は嘘をついた。最初の嘘を見破ったと思った少年は、大きな嘘を見破ることが出来なかった。
少女は、学校に戻っては来なかった。親戚を頼り転校したと噂で聞いたが、どこに行ったのか解らなかった。
少年の手許には、小さくなった水風船。
しかし3年後の夏祭りに、あの神社で少女に会えると、少年は確信していた。
おわり
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