【短編小説】 熱帯夜(2)
2005年8月24日 【短編小説】〔本文〕
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「夜店が開くのは、もっと涼しくなって人が集まってからだなぁ」
背中に、しわがれた声を聞いて少年は振り返った。金属製の大きなタライを手にした男が、酒灼けした赤黒い顔に笑みを浮かべて立っている。声で想像した年齢より、若い男だった。
少年は、無言で背を向けた。もう夏祭りなど、どうでも良かった。
「おまえ、なんだかヤバイ目付きしてるなぁ……。何があったか、何をしようってんだかしらねぇが、あまり良い雰囲気じゃないねぇ」
誰の声も聞きたくない、誰も邪魔をするな。少年はまた、壁を作る。外界を遮断する。
「まあ、他人がどうこう言うつもりはねぇけどよ、暑いからこれ一つ持って行きな」
手に押しつけられた、冷たい感触。
「男の子だから青いのがいいだろ? ほれ、落とすんじゃねぇぞ」
男は輪ゴムで作られた小さな輪をゴツゴツとした短い指で引き延ばし、ポケットから出ていた左手の人差し指に引っかけた。伸びて、縮む、青い水風船。
強い日差しに目を細め、少年は緑濃い木々の隙間に青い空をみた。気持ちの中で、何かが揺らいだ。
しかし後戻りはしない、幾晩も考えて出した結論だ。心臓から身体を巡り、脳に辿り着いた血液は沸騰寸前だった。冷やす必要なんて無い、熱された血がもたらす思考こそ真実なのだ。
やり遂げなければ、自分は臆病者に成り下がる。一生、自分で決めたことを何一つ完遂できない気がした。自分が自分になる為の、これは儀式だった。そうだ、誰のためでもない。きょう自分は生まれ変わるのだ、本物の自分に。
少年は学校に着くと、鉄柵の校門を見上げた。鍵がかかっている。
夏休み当番の教師が出入りする、通用門に廻った。インターフォンで呼び出せば、標的の数学教師が出てくるはずだ。インターフォンに指をかけたとき、手首に冷たいものがあたった。青い、水風船。
「あ、水風船。お祭りで買ってきたの?」
意想外の声に、少年の手が止まった。
「まだ夜店、開く時間じゃないでしょ? どうしたの?」
ショートカットの似合う、背の高い少女が明るい笑顔で少年の顔を覗き込んだ。
「変なオヤジに貰ったんだ……」
「えっ、いいなぁ……あたしも欲しいなぁ」
少女は羨ましそうに、少し口を尖らせた。
「おまえ、ナンでここにいるんだよ」
少年は苛々しながら少女を睨み付けた。
「きょう、ここで会えそうな気がしたから待ってたんだ」
「……何の為に?」
「謝らなくちゃ、いけないと思って」
少年は驚いて目を見開き、少女から顔を背けた。
「……ざけんじゃねぇよっ!」
夏休みに入ってすぐ、期末テストの点が悪かった少年は数学の補習を受けさせられた。3日間の補習は他にも数人いて、少女も一緒だったのだ。
その日は、補習の最終日だった。少女は皆が終わる頃になって現れ、一人で補習を受ける事になった。時間を間違えたと笑う少女をからかい、少年は他の生徒と共に校舎を後にした。しかし、近くの神社の夏祭りに誘うつもりで引き返したのだ。
この日に誘わなければ、わざわざ電話をしなくてはならない。そんな勇気はなく、何よりも照れ臭かった。
そして、目撃してしまったのだ。
数学教師は、普段から少女に対して嫌がらせを言うことが多かった。高校一年ながら、少女の体格は大人の女性を思わせた。胸の大きさは頭の軽るさに比例すると、侮辱したこともあった。おっとりとした性格の少女は困ったように笑うばかりだったが、少年は、はらわたの煮えくりかえる思いがしていたのだ。
少女の白くふっくらした柔らかそうな頬をみるとき、薄いブラウスから透ける下着の下を夢想した。それは少年にとって、神聖で犯しがたいものだった。数学教師に憎悪を募らせながら、いつしか少年の中で少女の存在が大きくなっていった。
数学教師は、気が付かなかったかもしれない。だが抵抗する少女の泣き顔が、一瞬、少年の方を向いた。少年は何も出来ず、その場から逃げた。
(続く)
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◆台風が近づいています。
暴風雨で軋む家鳴りを聞きながら朝を迎えたとき、眩しい青空に自然の偉大さを感じました。
都会では、感じられない感覚。
都会には都会の、嵐が来ます。
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「夜店が開くのは、もっと涼しくなって人が集まってからだなぁ」
背中に、しわがれた声を聞いて少年は振り返った。金属製の大きなタライを手にした男が、酒灼けした赤黒い顔に笑みを浮かべて立っている。声で想像した年齢より、若い男だった。
少年は、無言で背を向けた。もう夏祭りなど、どうでも良かった。
「おまえ、なんだかヤバイ目付きしてるなぁ……。何があったか、何をしようってんだかしらねぇが、あまり良い雰囲気じゃないねぇ」
誰の声も聞きたくない、誰も邪魔をするな。少年はまた、壁を作る。外界を遮断する。
「まあ、他人がどうこう言うつもりはねぇけどよ、暑いからこれ一つ持って行きな」
手に押しつけられた、冷たい感触。
「男の子だから青いのがいいだろ? ほれ、落とすんじゃねぇぞ」
男は輪ゴムで作られた小さな輪をゴツゴツとした短い指で引き延ばし、ポケットから出ていた左手の人差し指に引っかけた。伸びて、縮む、青い水風船。
強い日差しに目を細め、少年は緑濃い木々の隙間に青い空をみた。気持ちの中で、何かが揺らいだ。
しかし後戻りはしない、幾晩も考えて出した結論だ。心臓から身体を巡り、脳に辿り着いた血液は沸騰寸前だった。冷やす必要なんて無い、熱された血がもたらす思考こそ真実なのだ。
やり遂げなければ、自分は臆病者に成り下がる。一生、自分で決めたことを何一つ完遂できない気がした。自分が自分になる為の、これは儀式だった。そうだ、誰のためでもない。きょう自分は生まれ変わるのだ、本物の自分に。
少年は学校に着くと、鉄柵の校門を見上げた。鍵がかかっている。
夏休み当番の教師が出入りする、通用門に廻った。インターフォンで呼び出せば、標的の数学教師が出てくるはずだ。インターフォンに指をかけたとき、手首に冷たいものがあたった。青い、水風船。
「あ、水風船。お祭りで買ってきたの?」
意想外の声に、少年の手が止まった。
「まだ夜店、開く時間じゃないでしょ? どうしたの?」
ショートカットの似合う、背の高い少女が明るい笑顔で少年の顔を覗き込んだ。
「変なオヤジに貰ったんだ……」
「えっ、いいなぁ……あたしも欲しいなぁ」
少女は羨ましそうに、少し口を尖らせた。
「おまえ、ナンでここにいるんだよ」
少年は苛々しながら少女を睨み付けた。
「きょう、ここで会えそうな気がしたから待ってたんだ」
「……何の為に?」
「謝らなくちゃ、いけないと思って」
少年は驚いて目を見開き、少女から顔を背けた。
「……ざけんじゃねぇよっ!」
夏休みに入ってすぐ、期末テストの点が悪かった少年は数学の補習を受けさせられた。3日間の補習は他にも数人いて、少女も一緒だったのだ。
その日は、補習の最終日だった。少女は皆が終わる頃になって現れ、一人で補習を受ける事になった。時間を間違えたと笑う少女をからかい、少年は他の生徒と共に校舎を後にした。しかし、近くの神社の夏祭りに誘うつもりで引き返したのだ。
この日に誘わなければ、わざわざ電話をしなくてはならない。そんな勇気はなく、何よりも照れ臭かった。
そして、目撃してしまったのだ。
数学教師は、普段から少女に対して嫌がらせを言うことが多かった。高校一年ながら、少女の体格は大人の女性を思わせた。胸の大きさは頭の軽るさに比例すると、侮辱したこともあった。おっとりとした性格の少女は困ったように笑うばかりだったが、少年は、はらわたの煮えくりかえる思いがしていたのだ。
少女の白くふっくらした柔らかそうな頬をみるとき、薄いブラウスから透ける下着の下を夢想した。それは少年にとって、神聖で犯しがたいものだった。数学教師に憎悪を募らせながら、いつしか少年の中で少女の存在が大きくなっていった。
数学教師は、気が付かなかったかもしれない。だが抵抗する少女の泣き顔が、一瞬、少年の方を向いた。少年は何も出来ず、その場から逃げた。
(続く)
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◆台風が近づいています。
暴風雨で軋む家鳴りを聞きながら朝を迎えたとき、眩しい青空に自然の偉大さを感じました。
都会では、感じられない感覚。
都会には都会の、嵐が来ます。
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