閑話1

2005年2月16日
 『俺のバレンタイン・フェアリー』

かざと ゆう

 昨日から、やたらに眠くて生あくびばかり出ていたんだ。俺の場合、それは風邪の兆候に間違いない。でも英語の授業じゃ不真面目だって決めつけられ、目が覚めるようにと教科書を読まされた。ああ、あの陰険教師! 少しばかり足が綺麗だからって、許せるもんか。立って音読しているうちに、頭はふらふら、足はがくがく……。中学校美人英語教師、生徒を虐待って新聞に投稿してやる。あ、でも美人は余計だな、俺が先生を不純な目で見てる事がバレてしまう。
「弘武くん、熱計ったの? 熱がないなら学校に行きなさい」
「んあ……」
 俺の妄想は、母さんの冷たい一言で破られた。
「かあさぁん……俺、昨日学校で倒れたんだぜ? あんた、風邪で死にそうな可愛い一人息子を置いて、仕事に行っちゃうんだ」
「その程度の風邪じゃ、死にゃしないわよ。それよりオマンマの食い上げが大事なの」
「鬼っ! 悪魔っ! 人でなしっ! 恐怖の大王!」
「あーはいはい、その元気があるなら大丈夫。お昼ご飯はオニギリつくっておいたから、インスタントみそ汁で食べてね。リビングのテーブルの上よ」
 母さんは、そのまま振り向きもしないで俺の部屋から出て行った。俺は身体を起こして、さっきまで口に突っ込んでいた体温計を見る。
「三七度八分かぁ」
 英語の授業中に倒れて、保健室で計った時は四〇度近かった。さすがに恐くなったけど、人間って案外丈夫なもんだな。意識がもうろうとしてた昨夜は心配かけちまったけど、母さんの言うようにこのくらいの風邪で死ぬ事はないんだろう。今朝は食欲もあったし、少しだるさが残るくらいでわりと気分もいい。
 それにしても大事を取って休みたいと俺が言わなけりゃ、母さんは本気で学校に行かせるつもりに違いないな……。
「そうそう、弘武! 今日はバレンタインだから、母さん帰りにヒャッキンでチョコ買ってきてあげるねー」
 階段の下から聞こえた声に、思わず中指を立てた。もちろん母親にたいしてするべき事じゃないけどね。
 悪いけど俺は、女子の人気が高いんだ。母さんから哀れみのヒャッキンチョコなんか、いるものか。学校が終われば、家に女の子が押しかけてきて……。
「はあぁぁ……」
 俺はガックリ肩を落とし、猫っ毛の頭を掻きむしった。いつもはワックスで綺麗に起てているけど、今日はその必要もない。だって女の子が家に訪ねてくるなんて、間違ってもありえない現実だからだ。
 運動能力も低いし、顔も十人並み。成績だって中の下。唯一の自慢は吹奏楽部でトランペットをソロで吹く事だけど、背が低いから今ひとつ目立てない。今までチョコを貰った事なんか無かったよ、ちくしょう……。
「ひでぇ親……中学生になったからって、まだ十四歳だぜ? 小学校の時は、もっと優しかった気がするのになぁ……」
 父さんは東北の発電所に単身赴任して長く不在だったから、我が家は母子家庭みたいな物だ。父親役を兼ねる母さんは、僕の事をよく考えて丁度良い距離で接してくれていた。時に、厳しすぎるんじゃないかと思うくらいね。今日だって休めない訳じゃないのに、「甘やかしたら図に乗る」って理由で仕事に行ってしまったんだ。
 四〇歳を過ぎてるわりに見た目も気持ちも若い母さんが、外で働く事は賛成だ。だけど病気の時くらい、やっぱり側にいて欲しいよな。
 ふて腐れてベッドに身体を投げ出すと、背中が冷たかった。
 そうだった、汗で湿気たパジャマを着替えるように言われていたんだ。俺は母さんが枕元に用意してくれた着替えを確かめ、パジャマを脱ぎ始めた。
「おいおまえ、レディの前で服を脱ぐのは失礼だぞ!」
 どこからか、声が聞こえて部屋を見回す。
 この部屋にテレビはないし、ラジオもない。パソコンのスイッチは切ってあるし……窓の外かな? それなら関係ないや。俺はパジャマを脱ぐと、アンダーシャツをたくし上げた。
「きゃあ、きゃあ、きゃあっ! やめろと言ってるんだ!」
「……幻聴かぁ?」
 三十七度八分は、幻聴が聞こえるほどの高熱じゃあない。だとしたら、何だ? 確かに甲高い女の声だったけど。
「ふぅん……」
 俺は素早くアンダーシャツを脱いだ。
「こいつ、聞こえなかったのかっ!」
 思った通り、また声がした。
「聞こえてるよ! 誰だ? どこから覗いてるんだ、変態女!」
「なんだとおっ!」
 一瞬、目の前を白い物が横切った。通り過ぎた方向に目を向けると、学習机の上に……上に……。
「ひえぇっ?」
 驚愕のあまり、口を突いて出たのは裏返った叫びだった。
 父さんが帰宅した時に、土産で貰った木彫りのペンスタンド。その二〇センチほどの高さに並んで立っていたのは。
「変態女と言うなっ! あたしは使いの者だ」
 なんとセロファンのように薄い、四枚の羽のくっついた女の子だ。キラキラ虹色に光る羽は理科の実験で見た雲母のように綺麗で、形はトンボか蜻蛉みたいだった。身体には、ほんのりピンク色に輝く白いワンピースを着ている。足は素足で、マッチ棒みたいに細い。薄茶色の長い髪が掛かって顔はよく分からないけど、どこかで見たような。
「熱で脳症おこしたって話を聞いたな……俺も危ないって事か?」
 目の前のものは、理解の限度を超えている。俺は頭を抱えて、溜息を吐いた。どうやら若い命は誰に看取られることなく、脳症の為に終焉を迎える事になりそうだ。
「馬鹿者、見えているならあたしの話を聞け!」
「……なにぃっ、ふざけんなよっ!」
 幻覚にしては尊大な物言いに、むっとした俺はペンスタンドに左手を伸ばした。女の子は、ひらりと飛び上がって逃れたが、素早く右手で叩き落とす。
「ぷぎゃっ!」
「ふん、虫取りは得意なんだよ」
 父さんの仕事先に遊びに行くたび、昆虫採集で培った手さばきが役に立った。でも少し可愛そうだったかな? 一応見た目は女の子だし……死んじゃいないと思うけど、くたっとしている。
 俺は羽に触らないように気を付けながら、机に張り付いたものをそっと掴む。意外に柔らかくて温かい、ふわふわとした猫のしっぽのような感触だ。リアルな手応えに、夢や幻じゃないのかと驚く。
「離せ! はなせっ! 馬鹿ぁ!」
「あ、ごめん」
 悲鳴のように叫ばれ思わず手を緩めると、ふらふらした足取りの女の子は机の端まで行き、ちょこんと腰を下ろしてマッチ棒のような両足を突きだした。俺は不思議な気持ちで眺めていたが、はっと気を取り直す。

<閑話2に続く>

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