<コメント>
 ちょっとした息抜きで、番外編です。田村氏の一人娘、杏子ちゃん。ごく普通の夢見る乙女です。

<本文>

 毎週月曜日の朝の風景が、彼女は大好きだった。かの王子が、白く長い指で優雅にコーヒーを飲む。その唇の触れる白磁の陶器になれるものならばと考えただけで、顔は赤らみ動悸が速くなる。
 窓から吹き込むさわやかな海風が、白いレースのカーテンをゆらし彼の顔に少しだけ影をつくると、長い睫毛が震えて憂いを帯びた表情になる。
 その時、すこし栗色がかった髪がふわりと揺れて、彼女に気付いた彼が優しく微笑んだ。
「おはよう、杏子ちゃん。」
「あっ、おはようございます。」
 杏子は慌てて挨拶を返し、ダイニングテーブルの斜め向かいの席に座る。
「月曜日は杏子も洋食だったわね? 」
 母親の小枝子が彼女の前にキノコ入りオムレツとパン、サラダ、オレンジジュースを置いた。
「ありがと、いただきまーす。」
 ペンション〈ゆりあらす〉では夕食のみならず朝食も、和・洋のどちらかを選ぶことが出来る。宿泊客がないときは和食になることが多いが、月曜の朝は前日の客がそのまま仕事に行くことも多く、両方用意することが常だった。
「コーヒー、お代わりは? 遼君。」
「有り難うございます、いただきます。」
 小枝子が遼にコーヒーのお代わりを注いだ。子供がコーヒーを沢山飲むのは良くないと、いつもはお代わりを勧めないのに今日はどういう訳なのだろう、と、杏子は不思議に思った。ふと見ると、遼は小さくあくびを噛み殺している。
「眠そうね、遼君。」
「うん、明け方近くまで優樹のために眠れなかったんだ。」
「またぁ?」
 杏子は呆れた声を出す。
「なんだよ、遼がやりたいって言ったんだぜ。」
 遼の真向かいでアジの開きのお代わりを骨ごと頭からかじる優樹が、自分を睨む杏子に向かって不満そうな声で呟いた。
「だって毎週じゃない。来るたびに遼君、優樹のパソコン修理してるわよ。自分で直せないなら使わない方がいいんじゃない? 」
「よけいなお世話。こいつはパソコンいじるの好きなんだからさ、いいんだよなっ、遼。」
 仕方ないな、と言った顔で遼が笑う。その笑顔が杏子は大好きなのだが、優樹の前以外で彼がその屈託のない笑顔を見せることはない。他の人間に向けるのは何時も穏やかで優しいだけの笑顔だ。
 遼のきちんとアイロンのかかった白いシャツは、襟元まできっちりとボタンをしめ学園指定の臙脂色のネクタイを綺麗に結んである。校章の入ったタイピンも、指定の場所から数ミリも違わないところに止めてあった。
 週末を何時もこのペンションで過ごす彼の着替えは小枝子が洗濯してくれるのだが、アイロンは自分でかけることになっている。
(それに比べて……。)
 杏子は小さく溜息をつく。
「優樹、シャツのボタンくらいちゃんとしめたら? アイロン、襟と袖にしかかけてないしネクタイの結び方もだらしないんだから。ところであなたは眠そうじゃないけど、遼君に修理を任せて先に寝ちゃったんじゃないでしょうね? 」
「あーもう、朝からうるせえなぁ。だいたい俺が一緒に起きてても、仕方ないだろう? 何も出来ないんだから。朝ロードワークがあるから早く寝ないと授業中眠くなるんだ。それにさっきシャワー浴びて熱いんだよ。人の事よりさっさと朝飯食わないと遅刻するぞ。おまえ、飯食ってから支度が長いんだからさ。」
「あんたがアジの開きを丸かじりしてるの見ると、朝から食欲なくしちゃうわよ。せめて骨くらい出したら? 猫じゃあるまいし。遼君もそう思うでしょう? 」
 いきなり自分に話を振られて、遼は困ったような顔をする。
「まあ、好きずきだけど。でも骨は出さないと咽を傷つけるよ、優樹。」
 ほらご覧なさい、と、杏子は勝ち誇った顔を優樹に向けた。
「カルシウム補給だよ、育ち盛りだからな。オヤジがそう言ってたんだ。」
 優樹は気にもとめない。
「おまえにそれ以上でかくなられたら困るな。いったい今の身長はどれだけあるんだか……。それからオヤジさんが何時も骨ごと食べろと言ってたのは〔シコイワシのごま酢漬け〕の事で、アジの開きの事じゃないぞ。」
 田村が笑いながら口を挟む。
「こないだの身体測定じゃ一七九センチだったかな。」
「嘘ですよ、田村さん。彼は確か一八二センチです。」
 くすくす笑いながら遼が訂正すると、優樹は、ちぇっ、と小さく呟き残りの白飯を口にかき込んだ。
「ところで遼君、悪いが今朝はお客さんの送迎が何組もあるので学園まで送ってあげられないんだよ。バスで行ってもらえるかい。」
「はい、わかりました。」
「えーっ、バスなんだ。めんどくさいなぁ。」
 杏子が不満そうな声を出す。田村の仕事がてら毎朝学園までは車で送ってもらっているため、バス停まで歩いていって込み合う車内で立っているのが厭なのだ。以前は自転車を使うこともあったが、足が太くなると聞いてからは乗るのを止めてしまった。
「遼は俺のバイクで行けばいいじゃないか。メットならあるぜ。」
 牛乳の一リットルパックを手に優樹が誘った。
「ありがとう。でも杏子ちゃんとバスで行くよ。」
 優樹のバイクはオフロードで、オンロードに比べるとタンデムシートの乗り心地がいいとは言えなかった。以前オンロードに乗っていたこともあったのだが、潮風の影響を受けるこの土地ではエンジンのメンテナンスが面倒だからとすぐに乗り換えたのだ。遼が断った理由は、それだけでなく優樹の運転の仕方にも原因があることも確かだが。
(遼君、優樹のバイクじゃなくてバスで行くんだ……。)
 遼と一緒のバスとなれば、道すがら二人きりで話が出来る。杏子はこのチャンスに以前から叶えたいと思っていたあのことを切り出してみようと決意した。
「じゃあ早くしなくっちゃ。優樹の所為で遅れちゃう。」
「勝手なこと言うなよ、自分がつまんない人の世話焼いてるからだろう? 先にいっちまえよ、遼。」
「大丈夫、まだ時間があるから待ってるよ。あ、そうだ優樹。ネクタイちゃんとしめないと生活指導の刈谷先生にまた叱られるよ。」
「あー面倒くせぇな、苦手なんだよネクタイ。」
「しょうがないなぁ、僕が結んであげるから。」
 遼は優樹のシャツのボタンを上まで留めるとネクタイをきつく結んだ。
「うえっ、苦しい、死ぬっ! 」
「シャツがきつくなったんだろう。タイピンは? 」
 息苦しさに顔をしかめる優樹を無視して遼が聞く。
「行方不明。」
「……。多分探すより売店で買った方が早そうだ。君の部屋を片づけたら、いったい幾つタイピンが見つかるかな。」
 ゴミ箱をひっくり返したような彼の部屋から小さなタイピンを見つけだすことなど奇跡に近い。優樹の部屋で過ごすときは遼も手伝って片づける事もあったが、最近は自分の居場所だけ確保するようにしていた。
「遼君、優樹になんか構ってないでもう行かなくちゃ。」
 支度を終えた杏子が呼ぶ。
「うん、今行くよ。」
 遼は上着の内ポケットから予備のタイピンを出して優樹に手渡した。
「刈谷に今度注意されたら校長室行きだからね。貸してあげるからなくすなよ。それから……わざわざ人に結んでもらったんだから、せめて正門をくぐるまで外さないこと。」
 シャツの第一ボタンを外そうとしていた優樹は、慌ててその手を引っ込めた。

(づづく)

<叢雲掲示板>
http://www.ad-office.ne.jp/cgi-bin/bbs/ad1.cgi?8429maki

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索